世界各地の先史岩面画に関心を抱く皆さんとの情報交換を行う場です。
by rupestrian
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見えるものと見えないもの

 前回のブログで、心理学や脳科学を「見えないもの」を「見えるもの」にしようとするチャレンジだと、一方的な決めつけの言い方をしてしまったが、もちろん単純化しすぎることはできないのであり、日夜様々な調査研究の営為がなされていることは、当然のこととして尊重しなければならない。こういうブログを書いていると、誰にも読まれていないかもしれないが、自分なりに考えをまとめる機会ともなり、コメントなどの反響が全くなくても、それなりに意義はあるのではないかと考え始めている。前回、あまり深く考えることなく「見えるもの」と「見えないもの」を対比することになったが、もちろんこの表現は、フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティの著作である『見えるものと見えないもの』(1964年、邦訳は1989年、みすず書房)から借りたものであり、私もわからないなりに、原書のポケット版を持っていて、邦訳本も出てすぐに購入した記憶がある。メルロ=ポンティが死ぬまで手を入れていて、遺作として刊行されたこの本に関し、その概要を紹介することさえ、私にはできないが、この第2次世界大戦後を代表する現象学者のことばに少し触れただけではあっても、その方法意識の自分自身に対する影響を否定することはできないほどである。

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 私自身は,前回も述べたが、現象学的方法により洞窟壁画をはじめとする先史岩面画を学ぼうとしている研究者であり、ただ周囲を煙に巻くためだけにそう言っている傾向もあるが、まあ、「見えるもの」である美術作品に対して、内面や思想など「見えないもの」をできるだけ排除して立ち向かいたいという決意表明であるといってもいいだろう。もちろん、すべての美術作品には人生の深い記憶を基に豊かな内面を育んでいる作者がいるのであり、それを軽視することはできないのではあるが、なかなか「見えないもの」であり、また、作品として「見えるもの」になっているというのも素朴すぎるだろう。「見えないもの」の一端が作品の部分を形成していることも認めなければならないが、それはごく一部であり、時には、内面とは無縁のところで、イメージが外在的に形成されることもあるのではないか、というのが私の「統合」理論の根幹に関わるところである。私の「統合」理論に関しては、我ながら未だ全貌が明らかにされていない感があるが、その形成に現象学的な方法意識があることは認めてもいいだろう。
 しかし、晦渋なことをいっているつもりはなく、できるだけ身体的に追体験可能なことに限って論じようという気持ちは持っていたいということにすぎないのかもしれない。洞窟壁画の作者もホモ・サピエンスであり、解剖学的には身体的機能は何ら変わっていないだろうということが、立論の基本である。例えば、洞窟壁画の動物像のサイズは、ルロワ=グーランによれば、8割以上が長さ80cm前後であり、それは足場を変えないで人間の片腕(利き腕)が届く範囲(Champ manuel・操野)に制限を受けている、という考え方である。洞窟壁画にも作者はいて、その「見えないもの」である内面は計り知れないほど大きいだろうが、それを「見えるもの」である作品から考えるのは、不可能に近い困難なことだろう。私も、最近は「解釈」と称して、考えようとしてもいるが、なかなか結実するものは少ないのが正直なところである。今後も人間の心や脳という「見えないもの」に「見えるもの」である美術作品から肉薄したいという誘惑に駆られることもあるが、できるだけ抑えようと、常々自戒するところである。
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by rupestrian | 2012-10-29 16:57 | 先史岩面画
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