世界各地の先史岩面画に関心を抱く皆さんとの情報交換を行う場です。
by rupestrian
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「泳ぐ人」異論

 私が勤めているところには様々なことを専門に研究している方々がおられ、日々、異なった視点からの示唆を得て、刺激を得ることも多いのはありがたいことである。先ほど、この前のETV特集の再放送をご覧いただいた水泳の研究者から、例の「泳ぐ人」は、本当は泳いでいないのではないかという感想をいただき、色々と考える機会になった次第である。

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 上の写真は3体の「泳ぐ人」が並んで描写されていて、それなりにもっともらしい表現ではあるが、これが本当に人間の泳ぐ姿を写したものかどうか、という疑問である。全体的に反り気味で、この姿勢では泳げないのではないかというのである。納得のいく指摘であり、よほどの水流があって、自ら泳ぐというより、流れに身を任せて浮きつつ進んでいる、と考えないかぎり、これを写実的に「泳ぐ人」とは解釈できないのではないだろうか。6、7,000年前のギルフ・キビールでは、相当湿潤な気候で、大きな川もあったかもしれないが、そうであっても、これは「泳ぐ人」ではなくて、「流れに身をゆだねる人」ということになるのだろうか。私も、美術を写実として解釈するなら、これは「泳ぐ人」ではなくて、チベット仏教などを想起して、大地に身体を打ち付ける、ある種の礼拝をする人ではないか、と述べたことがあるが、別に私が本当にそう思っているわけではないということは、この場で改めて言い訳しておきたい。
 美術は、何も目の前にあるものを、見えるとおりに表現しなければならないものではなく、具象的な作風であっても、夢で見たもの、空想したもの、未来の予想図、宇宙の彼方の想像図など、何でも表現できるところが特徴的なのである。だから、一見して、横位置の人物像が「泳ぐ人」の写実的な描写だと短絡的に考える必要はなく、全く別のものをこのポーズで表現している、と考えた方がいいのではないだろうか。そうすると、何でもありで、解釈の端緒もつかめないだろうが、本来美術というのは、ある意味、とても複雑な精神生活の産物であり、容易には、作者の心持ちへとは、現れた作品だけを通しては到達できないものなのである。
 解釈不可能論に陥っても、それはそれで問題ではあるが、ここではこれ以上深入りしないようにする。それより、今回の「泳ぐ人」ではないのではないか、という指摘から、私は「内触覚的(ハプティッシュ)」という用語を思い出したのである。これは、元々はドイツの芸術学者のリーグルが言い出した概念であり、人間を表現するのは自分自身を描くことであり、純粋に視覚的な、外側からの姿だけではなく、身体の内側の感覚も加味されているのではないかというのである。

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 上の写真の左上の像は、同じサハラ砂漠のアルジェリア、タッシリ・ナジェールの「厚足人物像」と称される作品であり、両足が極端に分厚くなっているが、これは、高速で走っている自分自身の、足に力がみなぎっている感覚が現れたというのである。また、両足が180度近くまで広がっているが、これも、全速力で走ると、足が前後に伸びているように自らは感じられるから、ということのようである。こういう、美術を視覚だけからとらえないという考え方が重要であり、まさに、全身の感覚が生かされて、作品があるということなのである。この「内触覚的」という観点から「泳ぐ人」を見ると、どのようなことがいえるのだろうか。自身の泳ぐ感覚を振り返ってみると、かえって、身体が反り気味になっているということもあるかもしれず、予想外の展開ながら、「泳ぐ人」の解釈も復活するような気もするが、どうだろうか。皆さんのご意見を、是非、コメントいただくか、下記アドレスまでメールいただきたいものである。

ganmenga@gmail.com
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by rupestrian | 2013-06-18 14:35 | 先史岩面画
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