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オルドス式銅剣鋳型の発見
本日の朝刊で、オルドス式銅剣鋳型の発見というニュースを知り、久しぶりにこのブログに向かった次第である。滋賀県、琵琶湖西岸の高島市にある上御殿遺跡から、これまで類例のない遺物が発見されたということで、紙面に紹介されていた識者の発言でも「想定外」とあり、興味をそそられた。このように、その存在を誰も予想さえしていない代物が見いだされた時こそ、まさに新発見というべきであり、これもその類に列してよいかもしれない。従来は、大陸からの銅器はすべて朝鮮半島経由で伝わったとされていて、朝鮮半島でも類例が見つかっていない以上、その来歴は不明で、おそらく日本海経由の直接的なルートがあったのだろうというのが、現時点での予想のようである。
私は、この日本先史岩面画研究会の主要研究対象である、フゴッペ洞窟岩面刻画を研究する過程で、大陸からの、間宮海峡(タタール海峡)、樺太(サハリン)沿岸経由の人的移動と交易があったのではないかと主張していて、今回のニュースを知って、まず、このルートのことが脳裏に浮かんだのである。新聞では、日本海を直接渡るルートを想定してか、矢印が記入されていたが、これはあまりにも雑な解説図といえるだろう。 日本の先史時代は、どうしても、朝鮮半島経由の西側ルートが重視されているが、やはり、サハリン沿岸経由の北側ルートも無視できないのではないだろうか。まだまだ資料が圧倒的に少ないことが理由だろうが、現在の人口の分布と、先史時代の人口の分布は異なっていて当然であり、今、研究者が多い地域が、ずっと人工集中地帯だったとは限らないのである。北海道の先生方も、奮闘されているが、絶対数がまだ少ないのか、日本列島がいつの時代も西方のみに開かれていたというイメージが一般的なのが残念なところである。 フゴッペ洞窟からも、発掘当初「フゴッペ式」と名付けられた、珍しい土器片があり、他にも、サハリンの「鈴谷式」や「宗仁式」土器との関連性も指摘されていて、その北方的様相は顕著である。下の写真はフゴッペ式土器の出土状況を1970年報告書から転写したものである。 ![]() わたしが思うに、ユーラシア大陸と日本列島は、先史時代を通じて間断なく、サハリン沿岸経由の交流があり得たのであり、岩面画の制作伝統も、その一時期に到来した一傾向ではなかったかと想定している。ユーラシア大陸におけるその元となった文化を、私は韓国の金元龍先生の著作から「タガール・オルドス・スキタイ文化複合」と考えており、まさにオルドスは、紀元前5世紀以降の中国北部の青銅器文化であり、今回の上御殿遺跡における発見も、先史時代のダイナミックな交流の産物といっていいのだろう。現在の私たちは、過去のほとんどをまだ知らないのであり、もちろん、現時点での知見を元にストーリーを構成することは、学問的にも意味があるが、それにとらわれることなく、自戒を込めて、謙虚に、新発見に対峙したいものである。
by rupestrian
| 2013-08-09 13:16
| 先史岩面画
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